※今回の記事はとてもマニアックな話を書きます
応仁の乱(おうにんのらん)
室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年に及んで継続した日本の内乱
室町時代に将軍家や有力大名の跡継ぎ争いが大規模になった戦が応仁の乱
応仁の乱は細川勝元が「東軍」、山名宗全が「西軍」の大将を務めてました
西軍大将の山名宗全(山名持豊)はどこの出自かもわからないポッと出の武士ではなく山名氏は源氏の新田氏から分かれた家です
今日のタイトルは応仁の乱の話でも山名宗全の話でもない
山名宗全の先祖、山名氏の家祖である山名義範について
山名義範について
新田義重の庶子として誕生。上野国碓氷郡八幡荘の山名郷を与えられ、山名氏を称した。
承安5年/安元元年(1175年)から安元3年/治承元年(1177年)頃には豊前国の宇佐八幡宮を勧請し、山名八幡宮を建立している。他の兄弟と比較されて義範のみ新田荘内の所領を分与されず、また、極端に少ない所領しか相続しなかったことから、新田氏の庶流の中でもかなり冷遇されていたと見られる。
山名義範は誕生年月日が不明な人物ですが1175年にはこの世に居たことになります(山名宗全は1404年生まれの人物なので義範は宗全より200年以上前に生きていた人物ということになります)
父親は北関東を支配していた新田義重
新田義重には成人した息子が5人居た
嫡子(その家・一族を相続する次期家長のような者)が優遇されるのは仕方ない
嫡子以外にも息子は居るのに山名義範だけ渡される領地が少なく新田義重からの扱いは冷遇されていた
(google検索結果)
群馬県高崎市山名町の面積は 4.21 平方キロメートル(約 4,214,058 平方メートル)

山名義範の与えられた領地は現在の高崎市山名町辺りだったのではないかと思う
領地は狭いから農地も狭い、凶作になったらすぐ詰みそう、自分の実入りだけの話ではなくこの領地だけでは義範の子孫が繁栄するのも難しい
なおかつ新田一族でずっと収まると親族でも末席で苦労することも強いられる
ずっとこんな環境では明るい未来も望めない…
山名義範はこんな状況を打破する事を決心する
源頼朝の元に参陣
時代が進むと平家を打ち破り幕府を開く源頼朝ですが義範が参陣した時期はまだ源頼朝が関東平定も出来てない不安定な時期だったと見られる
これは源頼朝が平家や平家から派遣された国司に敗れたら山名義範も討たれたり所領没収されるリスクがある賭けになる
それでも不遇な現状を打破する為に源氏の棟梁になり平家と対抗する源頼朝に参陣して自分も活躍次第で身分も領地も向上を狙う
成功する確率が低そうな源頼朝に一か八か乗る、失うものは僅かな領地と命だけ、この機会を逃したら一生新田一族の末席で四苦八苦する未来しか無い
この後は歴史の教科書に書いてあるレベルでご存知の通り
一ノ谷の戦い
屋島の戦い
壇ノ浦の戦い
で源氏側が勝ち、平家側は敗れました
その後源頼朝が征夷大将軍に任じられ幕府を開きました

山名義範は早い時期の参陣と一の谷の合戦で功績をあげた
源頼朝に評価され、義範は御家人・源氏の門葉・伊豆守の官位を賜り伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)の国主に任命されました
山名義範は不遇な運命を打破して飛躍を遂げました
(早い時期に参陣しなかった新田義重は源頼朝から冷遇されました)
めでたしめでたし
【35歳限界説の男による蛇足的なあとがき】
山名義範の話を取り上げたのは私が山名氏の末裔でも無い、源氏の末裔でも無い、山名宗全のファンってわけでもない
たまたま逸話がヤバい天皇の話を扱う動画のYouTubeチャンネルを見てるうちに源氏の解説動画も見てて、山名義範のことがサラッと解説されてて気になったので記事にしてみました
不遇な状態でこのままだと未来が無いから一念発起する話は心が動かされます
しかも山名義範は源氏で北関東の有力者である新田義重の息子なのに不遇だった、普通なら優遇される立場なのにこのような話でしたから更に気になって…
自分も不遇で人間として成立してない状態から一念発起した身なのでこうゆうエピソードにグッと来るんだよ
一念発起する気持ちがあってもターニングポイントが無いと戦えない
山名義範は源頼朝が挙兵を決起しなければこれに賭けれなかったし
私の場合は35歳未満・交際相手・団塊世代の定年退職時期全部揃わなかったら賭けれなかった
気持ちだけではなくタイミングも必要だから人生って難しいね